はじめに
「母がアルツハイマー型認知症と診断されてから数年が経ちました。最初は物忘れ程度だったのですが、ある日を境に怒りっぽくなり、夜中に大声で叫ぶようになったのです。家族は眠れず、どう対応していいかわからず途方に暮れました。介護スタッフに相談しても、“BPSDかもしれません”と言われるばかりで、何を意味するのか理解できず不安でいっぱいでした。薬を使うべきなのか、副作用が怖いのか、判断に迷いました。」
こうした声は決して珍しくありません。アルツハイマー型認知症に伴うBPSD(行動・心理症状)は、本人だけでなく、介護を担う家族や支援者にとっても大きな負担となります。本記事では、BPSDの理解と薬物療法の基本について、介護現場と家族の視点から整理していきます。
1.BPSDとは何か
アルツハイマー型認知症は、記憶障害を中心とする中核症状に加えて、行動や心理面で多彩な症状が現れます。これが「BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)」と呼ばれるものです。
代表的な症状には以下があります。
- 妄想(財布を盗まれたと思い込む)
- 幻覚(見えないものが見える)
- 徘徊(目的なく歩き回る)
- 易怒性・攻撃性
- 抑うつ・不安
- 睡眠障害
BPSDは環境の変化や体調不良、服薬状況によって悪化することもあります。つまり「脳の病気の進行だけではなく、周囲の要因にも左右される」ことを理解することが大切です。
2.非薬物療法が基本

まず強調したいのは、BPSDへの対応は 非薬物的アプローチが基本 だという点です。
- 生活リズムを整える(昼夜逆転を避ける)
- 安心できる環境づくり(同じ場所に物を置く、声を荒げない)
- 関わり方の工夫(驚かせない、急がせない、自尊心を傷つけない)
- 音楽療法や回想法など心理的サポート
これらによって症状が軽減することもあります。薬に頼る前に、まず環境や介護の工夫で改善できないかを試みることが推奨されています。
3.薬物療法の役割

非薬物的対応だけでは本人や家族の生活が保てない場合、薬物療法が検討されます。薬はあくまで 症状の軽減や安全の確保 、介護介入の改善を目的とし、根本的に治すものではありません。
(1) 中核症状に使われる薬
アルツハイマー型認知症そのものの進行を抑制・遅延させる薬剤が登場しています。
- コリンエステラーゼ阻害薬(ドネペジル、ガランタミン、リバスチグミン)
- NMDA受容体拮抗薬(メマンチン)
- 抗アミロイドβ抗体薬(レカネマブ、ドナネマブ)
→ 近年承認された新しい薬剤。アミロイドβに作用し、疾患修飾効果が期待される。ただし、使用には適応条件や副作用(ARIA:脳浮腫・微小出血など)への注意が必要。
これらは直接BPSDを改善するものではありませんが、中核症状の安定化を通じてBPSDの軽減につながる可能性があります。
(2) BPSDに用いられる薬
BPSDに対しては、以下のような薬剤が状況に応じて使用されます。
- 抗精神病薬
- リスペリドン、 クエチアピン、オランザピン、ペロスピロン、アリピプラゾール、ブレクスピプラゾール(レキサルティ)、チアプリドなど
→ 妄想や幻覚、攻撃性に使用。ただし副作用(過鎮静、転倒、脳卒中リスクなど)に注意。 - 抗うつ薬
- セルトラリン(SSRI)、ミルタザピン(NaSSA)など
→ 抑うつや不安、易怒性に使用される。抗コリン作用が少ない薬が望ましい。 - 漢方薬
- 抑肝散(よくかんさん)、釣藤散(ちょうとうさん)
→ 興奮、易怒性、不眠などに使用されることがある。比較的安全性は高いが、エビデンスは限定的。 - その他
- 抗てんかん薬(バルプロ酸など):易怒性に使われることがあるが、有効性は確立していない。
薬は「必要最小限」「短期間」が原則であり、漫然と続けるのではなく、定期的な評価と見直しが必須です。
4.薬剤師の視点からみた注意点

薬を処方された際、介護者や家族が気をつけるべき点を薬剤師の立場から整理します。
- 重複処方や飲み合わせ
抗精神病薬や睡眠薬が複数処方されると、過鎮静や転倒リスクが増す。過鎮静などで昼夜逆転のリスクに注意。 - 副作用の観察
ふらつき、便秘、尿閉、パーキンソン症状、過鎮静、せん妄などを注意深く観察。 - 減薬・中止のタイミング
症状が落ち着いたら、医師に相談して漸減を検討。 - 服薬アドヒアランス
飲み忘れや誤薬を防ぐため、配薬ボックスや訪問薬剤管理が有効。
薬剤師は「薬を増やすこと」よりも「薬を安全に減らすこと」にも役割があります。
5.介護現場での工夫と実際のエピソード
実際の現場では、薬と環境調整を組み合わせることが効果的です。
ある施設では、夜間の徘徊と興奮が強い入居者に対し、環境音を和らげ、夜間照明を柔らかい色に変えたところ、薬の使用量が減った例がありました。薬を補助的に使いながらも、介護スタッフの工夫で安定した生活を取り戻せたのです。
家族も「薬に頼るしかないと思っていたけど、環境の工夫で改善することもあると分かり安心しました」と語っていました。
6.まとめ

BPSDは本人が好きで起こしている行動ではありません。脳の変化による症状であり、周囲の工夫や薬の適切な使用で軽減することができます。
介護者は「自分の対応が悪いからではない」と知ってください。そして薬を使う場合も、必ず医師・薬剤師と相談し、定期的に見直すことが重要です。
介護の現場は大変ですが、BPSDの理解を深め、薬を正しく活用すれば、本人も家族も少しずつ穏やかな時間を取り戻せます。
参考文献・出典
- 日本認知症学会監修『認知症疾患治療ガイドライン2023』
- 厚生労働省「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」
- 中村裕之ほか:BPSDに対する薬物療法の現状と課題. 精神科治療学 2020; 35(3): 245-252.
- Cummings JL. Behavioral and psychological symptoms of dementia: relevance for drug therapy. CNS Drugs. 2021; 35(5): 501-517.
- van Dyck CH, et al. Lecanemab in early Alzheimer’s disease. N Engl J Med. 2023; 388: 9-21.
- Mintun MA, et al. Donanemab in early Alzheimer’s disease. N Engl J Med. 2021; 384: 1691-1704.


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